すごいクリエーターが持つ『直感』の正体。プロが直感で決断を下せる理由

デザインの巨匠が口を揃えて、デザイナーの卵たちに言う定番の言葉があります。

「直感を信じなさい。」

私も、美大時代にさんざん聞かされてからというもの、この言葉を信じて仕事をしてきました。ほんとに鵜呑みにして大丈夫なのかなぁ、という一抹の不安を感じつつ。

ところが、あるお堅い本によれば、直感というのは、自分の過去の経験すべてから脳が瞬間的に感じ取るものらしい。第六感的な神がかったものかというと、そうでもない。

人間がどうやって決断するのかを科学的に分析した「Sources of Power: How People Make Decisions」という本に書かれている、この説が正しいとすると、早い話がこういうことになる。

直感を武器に仕事できるのは、連戦錬磨のベテランのデザイナーだけ。

「直感を信じろ」というセリフを私に話してくれたのが、ほぼ全員、超一流の人気デザイナーだったことから考えると、これは正論です。

よく観察してみると、直感を!・・・と言っているスゴ腕のおっさんおばさん達は、毎日地道に勉強を続けているし、新しい仕事となれば、大量のリサーチをする。

あの人たちは「直感を解読する技術」も身につけているに違いないと思っています。直感というのは、形がなくて雲のようにモヤモヤしている「気分」のようなもの。頭の中にどんな形の雲が現れたら地震が来るとか、雨が降るとか、場数を踏んでいないと判断しようがない。作っていて、どんな気持ちになるデザインがうまくいくかは、失敗と成功を様々に経験したからこそ選べることなのではないかと。一流のプロ達でさえ、陰では失敗作を連発しているのを、私が見てきたから、そう思うわけですが。

さて、私が今、若い人にアドバイスをするならば、こうなります。

「膨大な量の経験を積み重ねろ。そうすれば『直感』を信じられるようになる。」

「何歳までなら天職探しをしていいのか?」 — 石岡瑛子さんから聞いた仕事論

ロサンゼルスから、恒例の年賀Eメールが届きました。

MITメディアラボ出身のロシア人デザイナー、ニキータ氏より。ちょうど同じくらいの歳なので、お互い気がついたらいい年齢になっちまったねえ、とか書かれた中に、最近すっかり忘れていたことが書いてあった。

「君の親方によれば、35歳超えたら本気にならんといかんという話だから、俺たち、もう数年も過ぎちゃってね?(笑)」

そういや、当時の親方・石岡瑛子さんはそんなことを言っていた。

金はいらんので話を聞かせろ!というお手伝いの条件に、彼女が律儀に応えてくれたなかで聞いた仕事論の1つ。対する私は20代前半。

この話は、印象に色濃く残っているものの一つです。正確には、35歳ではなく「40歳」がリミットだそうですが。

「40歳まではいくらでも迷っていいし、むしろいろんなことを経験した方がいい。でも40歳になったときに、一生を捧げる自分の仕事が定まっていないといけない。後は、がむしゃらにそれをやる。」

この話を聞いた私は、意外とのんびりでいいんだなぁ、と思いました。

20年間試行錯誤して、そのあと70歳くらいまで現役バリバリで仕事をし続けるとして、活躍できるのは、たったの30年くらいの期間しかないじゃん!と。

石岡さんからその話を聞いてから、もう15年ほど経ちました。四十までの猶予期間は意外と短かった。ほんとに、あっと言う間。

私は、人並みの10倍くらい迷走した、どアホ男です。

意図してそうしたわけではなくて、興味のおもむくまま、優柔不断に生きてきたら、自動的にそうなりました。

木の家具作りの修行から始まって、工業デザインを学び、ウェブデザインやグラフィックで稼ぐようになり、ライター業もやり、銀行や花屋に足を突っ込み。脈絡なく手を出してきた。

そんな、ちぐはぐなキャリアを経て、いまの実感はどんなものかというと、これだけははっきり言えます。

人生、無駄な経験なんぞ一切ない。

1つ例を挙げると、高校生のときに私が年賀状配達のバイトをやらなかったら、「郵便で花を贈る」サービスは思いつかなかったわけです。あのときの純朴な彼は、20年後にグッドデザイン賞をもらうためのノウハウを身につけ中なう!・・・などと想像することすらできるわけもなく。

飲食店でのバイトなら接客技術が身につくし、ティッシュ配りなら受け取ってもらうための売り込み能力が身につく。こういう種類の経験は、どんなビジネスでも必要になる、オールマイティにつぶしの効く経験です。

今思うと、学校を卒業したばかりの若者が、一生を捧げる職業を選ぶなどということは、無茶ですよね。選択肢すら洗い出せていないから。自分に合っている職業の存在にすら気付いていない。

だから、若いときは、何も計画なんかせずに、飛び込んできたおもしろそうなチャンスに飛びついていけばいいのです。理由はいらない。とにかく、たくさんの種類のことを経験するのが正しい。

自分の究極の職業なんてものは、世界的な仕事人でも40歳までわかるものではないらしいですから。

 

日本のスタバではまだ流行っていない、ある飲み物

ニューヨークのスターバックスでレジに並び、自分の番を待っていると、よく聞こえてくる名詞があります。

それは、「ディ・カフェ」。カフェイン抜きのコーヒーです。

わが国では、カフェインは眠気さましの特効薬という救いの神的存在ですが、コーヒーを水がわりにガブガブ飲むアメリカでは、コーヒー中毒(=カフェイン依存)の人が多く、体に悪いものという印象が濃いのです。健康オタクが集まるニューヨークのような大都会だと特にそう。

最近、化学部質が頭脳におよぼす影響を、アメリカの医者が書いた本数冊で勉強したのですが、どの本も、カフェインと白い砂糖、そしてアルコールは、脳のパフォーマンスが落ちてやる気がなくなり、鬱状態に加担する物質の筆頭にあげられています。

ご存じのように、カフェインには血糖値を急に上げる効果がありまして、瞬間的に元気になって興奮状態になる。目が覚めたように感じるのはそのせいです。

ところが、副作用もある。血糖値があがりすぎたと検知したあなたの体は、インシュリンをどーんと大放出。血糖値が一気に下がってしまい、平常レベルを通り越して低血糖状態に転げ落ち、元気を奪います。

カフェインや麻薬のような興奮剤は、その化学反応の過程で、精神の安定に必要な化学物質を大量に消費してしまうという側面もあるそうです。精神的に不安定な人には、血糖値の乱高下とあわさって、かなり危険な存在。

すっかり健康オタク化している私は、普通のコーヒーとアルコール、精製された白い砂糖は少なめにするようになりました。この3つをやると、体と頭が動かなくなって、仕事が進まないため。

ちょっとネットで調べてみると、かのGIGAZINEもスタバのディカフェを取材していました。その記事によれば、ネスカフェも「ゴールドブレンド カフェインレス」というインスタントを売っているらしい。

コカコーラも、やっと数年前に日本で、カフェイン抜き・砂糖抜きの「コカコーラ・ゼロ・フリー」を売り始めましたね。あまり売れて無さそうですが。

さて、日本のスタバでは、ドリップコーヒーとしてだけですが、「ディ・カフェ」をオーダーできます。

あなたの前に誰もオーダーしていないときは、新しく作ってくれるので10分くらいお待ちいただくことになりますが、ディカフェは時間がかかるので、店員さんがテーブルまで持ってきてくれます。

誰もオーダーしない裏メニューのような存在。自分だけのためにいれてもらった1杯のコーヒーを、フルサービスで飲む。ちょっとスペシャルな気分を味わえる逸品です。

タダで楽しんじゃう新宿御苑の木漏れ日。最近の朝の日課

私の住んでいる四谷三丁目駅のへんは、JR新宿駅まで歩いても25分くらい。

東京版セントラルパークとも言うべき、大都会の真ん中に木々大盛りの「新宿御苑」がそばにあります。その北の隅に、意外と知られていない小川が流れる緑道を見つけました。

御苑の本体は入場料が必要ですが、ここは昼間だけ解放されています。正式には「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」というそうです。こんなところに玉川上水につながる水道があったとは。全長540m、のんんびり歩いて10分くらいの道のりです。

最近は、この道の木漏れ日を抜けて新宿に向かい、昼過ぎまでカフェで缶詰仕事。

秋になって日照量が減ると精神が異常をきたす、というアメリカの学者の調査報告を読んでビビってからというもの、朝の散歩をかねて少し遠い場所にあるカフェに向かうようにしていまして。セロトニンが減っちゃうのだそうです。

目的などない、ふつーの散歩をすすめる文化人は多いのですが、やってみるとたしかに頭が冴えます。太陽を浴びる以外に、軽い運動で脳に血がめぐるようでして。仕事がはかどります。

お勤めの仕事人のみなさんは、通勤という形で、これを自然に毎朝やってるわけですよね。ふうむ、よくできた仕組みですね。

自営のプロ達には、仕事場を自宅の中に持つか?別にしたほうがいいか?という議論が昔からあるのですが、私のここ15年の経験からすると、自宅と仕事場が一緒というのは、かなり工夫しないと、いろんな意味で厳しそう。

今朝は、保育園児の大群と遭遇。みんな大興奮で、道に散らばる銀杏やドングリを拾っておりました。

 

デザイナーのユニフォーム「黒いTシャツ」に秘められた、奇妙な職業の本質

デザイナー男子は、黒いTシャツを好んで着る。

私もその一人ですし、有名どころでは原研哉さんや、ナガオカケンメイさんもそう。

きっと理由があるに違いないから、なぜなのかなぁと、考えてみた。

すると、デザイナーという世にも変わったプロ軍団の、職業像が見えちゃいました。

 

人様を魅力的にするのが仕事だから、自分の見栄えになんぞ興味はない

デザイン屋さんは、広告や製品やビジネスを魅力的に、そして美しくする専門家です。

裏を返すと、実は、「自分自身」の演出については無頓着な人が多い。自分の姿には、あまり興味は無いから、服装を考えるのはめんどくさい。時間がもったいない。勝負は、作り出したものの方でしているという自負があるわけです。

少なくともわたしはそう。「お助けのプロ」であるデザイナーは、主役ではないから、センスを疑われない程度に、ほどほどにかっこよきゃ十分と思っています。

すごいものを作る仕事だから、プライベートや生活も華々しいに違いないと思われがちですが、ぜんぜんそんなことはありません。一言で言うと、一流の人でも想像以上に「地味」。みなさん、忙しくて格好いい生活なんかしてる余裕はない。そんなことできるのは、成金のヒマ人。

スティーブ・ジョブズも、いつも服装は同じでした。どこに登場するにも、黒いタートルネックと、ブルージンズ。

彼は、物作りに異常な執念を燃やすプロでした。そんな奇人が自分の服装なんか気にするわけがない。彼なりに見つけた、見栄えと手間いらずの妥協点が、あの組み合わせだったのだろうと思います。

彼の伝記本を書いたアイザックソン氏が自宅を訪ねると、クローゼットいっぱいに、同じデザインの黒いタートルネックが山積みになっていたという話です。ある時、東京を訪れたとき三宅一生さんと意気投合して、大量に作ってもらったらしい。

デザイン屋は、自分を演出することに関しては、逆にド下手だったりもします。いつもの調子で、一歩引いたところから、客観的に分析することができなくなるからです。

アメリカ最高峰のデザイン会社「IDEO」は、社内に多数のスゴ腕デザイナーを抱えていながら、自社ロゴのデザインを、あえて大金を払ってポール・ランド氏に依頼したと言います。その理由は何かというと、自分たちの特長やイメージは、客観的な眼を持っている人でなければ演出できないからだとか。

(ランド氏は、IBMやNeXTのロゴをデザインしたことで知られる大御所で、ジョブズの伝記にも登場)

 誰の色にも染まらない、ニュートラルな色

一流のデザイン屋さんともなりますと、引く手あまただから、あらゆる業種や会社の仕事を頼まれます。

お堅いビジネスから、ふにゃふにゃのやわらか系まで、いろんな依頼が舞い込んでくる。すると、特定の分野やスタイルに染まり過ぎると、他のビジネスからの仕事が来なくなってしまいます。

例えば、派手なアロハシャツを好んで着る個性派のデザイナーさんがいたとすると、そういう人には、地味なスーツ会社の仕事というのは来ない。

だから、歌舞伎の役者を助ける「黒子」のような存在であった方がベターなんです。あくまでも、主役を引き立てる脇役。お客さん自身や商品よりもぜったいに目立ってはいけないという、暗黙の了解のようなものがある。

デザイナーと言えば、歩く個性、だと思っている方は多いでしょうね。

でも仕事でお会いしたことのある原研哉さんや佐藤可士和さん、それから私の親方だった石岡瑛子さんなど、作るモノはぶっ飛んでいて超クリエイティブですが、ご本人達はとても堅実で控えめなタイプ。けっして派手な格好はしていません。派手で華々しいのは作っているものや、著書のほうだけ。

「黒」という色は、色彩の世界では「光が無い」状態を指します。

色にも、そして形にも主義主張が無い、黒いTシャツというベーシックな着物は、「わたしは、いつでもアナタ色に染まれますよ」という、クライアントさんへのラブレター・・・、だったりして。

一流の仕事人に共通の恐るべき「あたりまえ」

バレエダンサーの草刈民世さんは、子供の頃、朝から晩まで苦しい練習を毎日続けるのが、ごく「当たり前」だと思っていたそうです。

大人になるまで、ずっとそういうものだろうと思って生きてきたと言う。だから、別に苦しいとも思わなかったのだとか。そして、気がついたらトップに上り詰めていた。

「バレエ漬け」というの本の中で、彼女がそう書いているのを読んだとき、私の働き方に対する当たり前が、少し変わりました。

素晴らしい仕事をするために、寝る間を惜しんで目の前の苦痛に耐えるなんて当たり前!と思っている仕事人とは、凡人では勝負になるわけがありません。

あるデザイナーの頭の中

わたしの持っている「あたりまえ」の中には、仕事柄、世の中の感覚とはすこしずれているものが沢山あります。そのうち一つは、自営よりも、お勤めのほうが奇妙な生き方だと思っている、ということかもしれません。

生まれてこのかた、正社員として勤めたことがあるのは、2年半だけです。

声をかけてきたヘッドハンターに、800万円くれるなら面接に顔を出してやっても良いぞ言ったら、あっけなくOKが出てしまったので、銀行でデザイナーをやりました。ふたを開けてみたら、ボーナスやらなんやらで年に1,200万円貰っていた。

でも、だんだんと会社が安定期に入って、入社当時の自分の存在意義は薄くなり、仕事も面白くなくなったので、さっさと辞めてフリーに戻りました。

こういう判断を躊躇なく下せる感覚は、子供の頃から、家の一角でデザインの仕事をする立派な父の背中を見てきたことから生まれたものだと思います。

活き活きと自営で働く姿を子供の眼で眺めていて、仕事というのは楽しいものだということ、それから、自由に時間が使えることや、たまにお金が足りなくなって苦労する不安定さも、仕事人には当然のことだという価値感が頭に染みついている。おそらく死ぬまで変わることもないでしょう。

仕事人として、生きる場所は意図して選ぶ

あなた自身の人生からうまれた「あたりまえ」は、どんなものでしょうか?

おそらく、自分の周りにいる人々や家族、働く会社の中でできあがった価値感だと思います。

人はグループで生活することで生き残った生物。だから、自分の身を守るために、無意識にまわりの人々と同じ行動や、服装、そして考え方をするようになる生き物なのだと言われています。

流れにまかせておくと勝手に同調してしまうので、自分が生きる場所というのは、意識して選ばないといけない。だから、ときには思い切って、当たり前感覚が違う人たちの世界にお引っ越しをした方がいい。

特に仕事に関しては、自分のつくりあげる仕事の質や、働き方の基準をどのへんに設定しているかという考え方の違い一つで、長い人生の末に進む距離は大きく違ってきます。

私が昔から大好きな「あたりまえ」は、あの有名な仕事人コンビのもの。

崖っぷちに追い詰められて、絶体絶命の大ピンチ。ルパン三世と次元大介は、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて叫ぶ。

「おもしろくなってきやがったぜ!!」

 

{写真:香港の道ばたに集められた工事の看板。日本と似たようでありながら、よく見るとなにか違うという感覚}

「精神を整えるため」に走る。ダイエットでも体を鍛えるためでもなく

この冬から、毎月100キロ~150キロ走っています。

…と知った人は、みなさん驚きますが、私は決してアスリートタイプではなく、子供の頃からずっと運動オンチの部類です。

その私が、なぜ、そんなに夢中で走るのかというと、

ジョギングした後の数時間、恐怖と不安が消えて、難しい仕事が驚くほどはかどるから。

これにつきます。

夢中で走り始めるようになったきっかけ

去年の末に、一緒に住みながら事業をやっていた相棒と別れて、突然独り暮らしに戻りました。生活に張り合いはないわ寂しいわで、しばらく精神的にグラグラで、体を動かせばすっきりするかもという程度の理由で、ちょくちょく走り始めました。去年の2月くらいのことです。

以前には、デブ解消や、健康のためにジョグることはありましたけれども。

はじめは、ストレス解消と、貯まっていた仕事からの現実逃避で走っていたものの、次第に、別の理由で自然にジョギングを続けるようになっていきました。

脳からジュバジュバと放出される麻薬カクテル

人の体は、肉体的に限界が近づくと、苦痛があっても動き続けられるように、様々な快感物質のカクテルを放出して痛みを麻痺させようとするそうです。

ドイツの研究者が医学誌に発表した実験によれば、走り終わったあとの被験者に、物理的な痛みを与えたところ、文字通り苦痛に鈍感になっていたという。エンドルフィンやドーパミンなど、強力な麻薬級の化学物質が、その原因の「候補」とされています。

長く走れば走るほどこの効果が大きいようで、私の場合も、ゆっくりと1時間~1時間半くらい走っています。

この脳の仕組みは、進化論的にも筋が通ります。

太古の草原で、2人組がマンモスを追いかけていたとしましょう。

獲物は想像以上に手強くて、ものすごいスピードで逃げ続けている。2人の疲労も限界に近づきますが、片方の男は、脳から怪しげな物質がジュバジュバと放出される遺伝子を持っていたので走って追い続け、もう一方は、途中で筋肉の苦痛で走れなくなってしまい置いて行かれてしまった。エサにありついて生き残ったのは、麻薬を出せる脳を持っている方だったというわけです。

それが、その子孫である私たちが持っている遺伝子です。

外資金融マン達がジム通いをするわけ

私は、数年だけ、外資系金融業界でデザイナーをやっていたことがありますが、あの世界の上の方のビジネスマン達は、足繁くスポーツジムに通い、機会あらばチャリティーマラソンに参加する。

一見すると、単に健康オタクのスポーツマン達にも見えます。

でも精神面に目を向けると、彼らは、何千万という給料に見合った仕事をしないといけないプレッシャーとストレスにさらされ、巨額のお金を動かす毎日を送っています。お医者さんもそうですが、給料の良い仕事は、もれなく極度のストレスとセットになっている。

体を動かすのは、むしろ、ストレス対策に違いありません。

仕事の一環として走る

わたしは、頭の痛い仕事にとりかかる前には、必ずひとっ走りしてくるのが習慣になりました。帰ってきてシャワーを浴び、パソコンの前に座ると、うまく完成しないかもしれないという恐怖には鈍感になっていて、ザクザクと作業が進む。

とにかく進めてしまえば、うまく行かなかったはずのものも上手に出来上がってしまう。その一方で、恐怖で手が止まってしまうと、うまく行くものも失敗に終わります。私の場合は、いままでにこれが原因で何度も大失敗をしているので、仕事の一環として走っています。

走っている間は仕事のことを忘れるから気分転換になるし、走った後は不安が消える。副産物として、忍耐力も体力もつくし、体も美しくなるし、飯も美味い。仕事がはかどれば、自然に、収入も増えます。スポーツとは縁の無い自分は、極めてはっきりした理由があるので、ジョギングを続けているというわけです。

わたしは、ダイエットのためでも、体を鍛えるためでもなく、「精神と整えるため」に走り続けます。だって、仕事がはかどっちゃうから。