面接で出かけたオランダで、昔手伝ったオペラの再演を偶然知る。石岡瑛子さんと作った衣装デザイン

この冬に、アムステルダムへ面接で出かけました。

オランダのビジネスマンのおっさん達に混じって、ホテルのビュッフェ朝食であれこれ珍しいハムやらソーセージやらを食し、部屋に戻る途中、ロビーで国立オペラ座の公演カタログを発見。なにか面白い演目でもやっていたら観に行こうかと思い、一部拾ってみました。

部屋に戻って、ページをめくっていたら、見慣れた写真が出てきて驚いた。

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なんと、学生時代に手伝ったオペラが、2月から再演すると書いてある。

石岡瑛子さんの助手をやっていたときに、衣装の一部のデザインをつくらせてもらった、ワーグナーの大作オペラ「ニーベルングの指輪」。あれを手伝ったのは、もう20年近く前のことです。

4部構成、つまりフルレンクスのオペラ×4本で、舞台美術も超前衛的だったし、石岡さんに衣装デザインを依頼するくらいだから大金がかかった公演だと聞いていました。あれ以来、ずっと衣装と舞台装置を保管していたということでしょうか?さすが国立劇場。郊外に大倉庫でもあるに違いない。何度も再演できるすごい作品をつくれば、大金をかける価値もあるという判断だったのかもしれません。

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ドクロの形をしたヘルメット。石岡さんのディレクションで、デザインとドローイングは私。鉛筆と木炭。消しゴムも画材のように使って、要所ハイライト部分を白く。当時工業デザインを勉強していたので、「ヘルメットのデザインやってみる?」と、頼まれました。上の青い舞台写真でかぶっているやつ。

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こちらは巨大な怪獣のデザイン画。おなじくわたしの絵。ペンとマーカーと色鉛筆、修正用ホワイトでハイライト付け。ええ、オペラの舞台装置です、SFホラー映画ではありません。工業デザインチックな描き方ですね…。

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今年の旅で泊まったホテルが、ちょうど運河をはさんでオペラ座(写真)の反対側でした。劇場は当時の姿のまま・・・だと思うのですが、なにせ若い頃だったので興奮していて記憶が定かでない。

今回は用事を済ませるだけの短いオランダ滞在だったので、再演を観ることはできませんでしたが、石岡さんに招待されて、初演を観にニューヨークから飛んできた数日を思い出しました。

ぶっとんだ学生時代でした。

「何歳までなら天職探しをしていいのか?」 — 石岡瑛子さんから聞いた仕事論

ロサンゼルスから、恒例の年賀Eメールが届きました。

MITメディアラボ出身のロシア人デザイナー、ニキータ氏より。ちょうど同じくらいの歳なので、お互い気がついたらいい年齢になっちまったねえ、とか書かれた中に、最近すっかり忘れていたことが書いてあった。

「君の親方によれば、35歳超えたら本気にならんといかんという話だから、俺たち、もう数年も過ぎちゃってね?(笑)」

そういや、当時の親方・石岡瑛子さんはそんなことを言っていた。

金はいらんので話を聞かせろ!というお手伝いの条件に、彼女が律儀に応えてくれたなかで聞いた仕事論の1つ。対する私は20代前半。

この話は、印象に色濃く残っているものの一つです。正確には、35歳ではなく「40歳」がリミットだそうですが。

「40歳まではいくらでも迷っていいし、むしろいろんなことを経験した方がいい。でも40歳になったときに、一生を捧げる自分の仕事が定まっていないといけない。後は、がむしゃらにそれをやる。」

この話を聞いた私は、意外とのんびりでいいんだなぁ、と思いました。

20年間試行錯誤して、そのあと70歳くらいまで現役バリバリで仕事をし続けるとして、活躍できるのは、たったの30年くらいの期間しかないじゃん!と。

石岡さんからその話を聞いてから、もう15年ほど経ちました。四十までの猶予期間は意外と短かった。ほんとに、あっと言う間。

私は、人並みの10倍くらい迷走した、どアホ男です。

意図してそうしたわけではなくて、興味のおもむくまま、優柔不断に生きてきたら、自動的にそうなりました。

木の家具作りの修行から始まって、工業デザインを学び、ウェブデザインやグラフィックで稼ぐようになり、ライター業もやり、銀行や花屋に足を突っ込み。脈絡なく手を出してきた。

そんな、ちぐはぐなキャリアを経て、いまの実感はどんなものかというと、これだけははっきり言えます。

人生、無駄な経験なんぞ一切ない。

1つ例を挙げると、高校生のときに私が年賀状配達のバイトをやらなかったら、「郵便で花を贈る」サービスは思いつかなかったわけです。あのときの純朴な彼は、20年後にグッドデザイン賞をもらうためのノウハウを身につけ中なう!・・・などと想像することすらできるわけもなく。

飲食店でのバイトなら接客技術が身につくし、ティッシュ配りなら受け取ってもらうための売り込み能力が身につく。こういう種類の経験は、どんなビジネスでも必要になる、オールマイティにつぶしの効く経験です。

今思うと、学校を卒業したばかりの若者が、一生を捧げる職業を選ぶなどということは、無茶ですよね。選択肢すら洗い出せていないから。自分に合っている職業の存在にすら気付いていない。

だから、若いときは、何も計画なんかせずに、飛び込んできたおもしろそうなチャンスに飛びついていけばいいのです。理由はいらない。とにかく、たくさんの種類のことを経験するのが正しい。

自分の究極の職業なんてものは、世界的な仕事人でも40歳までわかるものではないらしいですから。

 

『誕生したばかりの師弟コンビ。2人のグラミー賞受賞者を目前に』 連載 石岡瑛子さんからの個人レッスン – 7

こうして唐突に、私は、オスカー像を持ってる人の助手になった。

正式に採用するという会話があったかどうかは、もう15年以上前のことなので覚えていない。でも、このカフェでの会話の一部分を鮮明に覚えていて、そのときの石岡瑛子さんの表情を思い浮かべると懐かしい。

私は「給料はいりません」と、改めて彼女に伝えてから、当然の権利であるかのように交換条件を述べた。

「そのかわり、勉強させて頂きたいので、お話をたくさん聞かせてください」

すると彼女は、満面の笑みを浮かべ、

「あらぁぁ、それは、高いわねぇ」

と、嬉しそうに返事をしてくれた。

このときの約束を、石岡さんは長いあいだ律儀に守ってくれた。ニューヨークで助手をした数年間、そして、日本に帰国してからときおり仕事を頼まれて会う度に。

私は、中学校2年で学校から脱走してからというもの、同年代の友達はあまりいなくて、遙かに年上の人たちばかりと関わってきたから、石岡さんのような超仕事人が、若者にどんな行動を求めているかも無意識に分かっていた。

若い女子はめっぽう苦手だったが、自他共に認める「おばさまキラー」だったのである。私は異常なまでに場の空気を読んで先回りする気の利く男で、仕事のできるおばさま達には、すぐに気に入られた。

仕事上の話ですけどね、念のため。

石岡瑛子さんのような大きな仕事をするプロに助手がいないというのは、普通の人には謎だと思うけれど、事務をたまにサポートする女性だけは東京とマンハッタンにいた。でも、なぜか、実作業を密に手伝う助手はいなかった。

後に彼女と親しくなってから聞いた話では、東京でたくさんのスタッフを抱えるのに疲れてしまったという。デザイン事務所をやる場合、「1人あたりの給料の10倍の売上げ」が必要だと教えてくくれた。

その頃の苦労もあるだろうし、アメリカにわたってからは仕事毎に一流の専門家チームを組むので、プロジェクトをまたがって仕事を手伝うアシスタントはいなかったのだが、たまたまオペラ仕事で予算が厳しいときに私と偶然出会い、初めて、試しに学生を使ってみようかという気になったようだった。

さて、シーンは助手面接合格後のカフェに戻る。

「まず助手にするかどうか、試験課題を出しますから」と電話で言っていた慎重派の彼女だが、そんな話などなかったかのような流れで、具体的な仕事の話をもう始めている。

親方は、熱心に連作オペラ2つ目の衣装デザインの構想を、私に説明している。早速、資料集めの依頼である。デザインのコンセプトを一つでも聞き漏らすまいと、わたしは猛スピードでノートに書き取っていく。

・・・その最中、突然、石岡さんが話がピタッと止まった。

私の斜め後ろの方、カフェの前の57丁目の通りをジッと見つめている。

何ごとかと思って振り向くと、ピカピカに輝く、ロールスロイスが一台とまっていた。運転手が降りてきて、ドアを開けると、白いスーツを身に纏い、片手にステッキを持った、マフィアのドンのような風貌の初老のイタリア系おやじが現れた。

背後で、石岡さんが興奮している。

「ちょっと、ちょっと、ちょっと、あれ、トニー・ベネットじゃないの!?」

わたしは誰それ?と思ったが、このすごいおばさんが大興奮しているからには有名人なのだろう。空気を読んで「え、ほんとですか!」とかなんとか口走った。だがしかし、彼女はもはや私のことなど眼中にない。

トニー・ベネットは、50~60年代に一世を風靡したグラミー賞の常連歌手。ニューヨークというのは、世界的な有名人でも、そのへんを平然と歩いている奇妙な街なのである。

そのベネット氏は、私たちが打ち合わせをしているカフェに、優雅な足取りで入ってくると、カフェ中の視線を浴び、何人かのお客さんに愛想を振りまきながら、店の奥の席に向かってこちらの方に歩いてくる。

有名な人をあんまりじろじろ見ては失礼である。そういう大人な方針の私は、横目でチラチラと覗き見していたのだけれど、ふと、石岡さんの方を見たら度肝を抜かれた。

この人は、文字通り「からだ全部」をベネット氏の方角に向け、遠慮も恥じらいもなく、目をキラキラさせてガン見しているではないか!

石岡さんは、面白いモノや人に遭遇すると、全身で好奇心を表現してしまう人なのだ。この時見た乙女で素直なお茶目さと、我を忘れる程の異常なまでに強烈な好奇心は、石岡瑛子という偉大なプロの知られざる素顔だと、後によく知ることになる。

ベネット氏は、私たち二人が座る席のすぐわきを歩いて行き、石岡さんは、まるで監視カメラのような動きで全身を使って追い続ける。ベネットさんは、遠慮なく見つめてくるアジア人のおばさんの視線にちょっとバツが悪そうだ。

そして私というと、石岡さんの姿の方を観察していた。

親方になったばかりのこの人の、見慣れない行動を至近距離で目撃した私は、天才的な仕事人というのは、ネジが数本抜けているに違いないと、頭の隅の方で感じはじめていた。アカデミー賞を受賞しているすごい人でも、こんなにミーハーなものなのかと驚き、ちょっと呆れながらも微笑ましかった。

今日からこの人の仕事を手伝うわけだ。

いま思うと、石岡さんもマイルス・デイビスのアルバムデザインで、グラミー賞を受賞しているわけで、私の目の前に受賞者が2人いたことになる。

私が言葉を交わしたことのある中では、石岡さんが最高峰だが、上には上がいるようだということも体感した。世の中には、いろんなレベルの有名人がいる。雲の上には雲の上の格付けのようなものがあるみたいだ。

誕生したばかりの師弟コンビは、オペラ衣装の最初の資料探しの相談を終えると、カフェを出て、カーネーギーホールの隣の黒い高層マンションまで並んで歩いた。

石岡さんの後を追って、ドアマンが手で動かしてくれる回転扉を抜けると、薄暗く静まりかえったロビーに、コンシェルジェが立つ大きな受付カウンターがあった。まるで高級ホテルだ。

彼女は、長身で東欧系美男子のコンシェルジェ氏に、「このヨシという彼が、これから手伝いで何度もくるから」と紹介すると、私の方を向き、「じゃあ、リサーチ、よろしくお願いしますね」と言ってから、きびきびした足取りで、もっと薄暗い奥の方に、足早に消えていった。

『助手になったその瞬間。カーネギーホール向かいのカフェにて』 連載 石岡瑛子さんからの個人レッスン – 6

マンハッタンの昼下がり。わたしは、57丁目と七番街の大通りが交わる角に建つ「カフェ・ヨーロッパ」で、石岡瑛子さんが来るのを待っていた。

快速「A」トレインにダウンタウンから乗って北上し、セントラルパークの左下角に位置するコロンバス・サークル駅で降りた。マンハッタン島を斜めに貫くブロードウェイを2ブロックくだってから左折し、57丁目の通りを東へちょっと歩くと、約束の時間よりも30分ほど早めに到着していた。

わたしは、窓の向こうにカーネギーホールが見える席に座って、黒いユニフォームのギャルソンにラテを頼んだ。ここは、交差点を挟んでカーネギーホールの斜め向かいにあり、公演を観に来た人々が立ち寄る店だ。その名のとおり、ヨーロッパのどこかの都市からそのまま持ってきたような雰囲気。石岡さんはカーネギーホールの並びの超高層マンションに住んでいる聞いていた。自宅から歩いてすぐの、彼女に指定された場所だ。

石岡さんとすぐに仕事の話ができるように、昨夜の電話の後に走って買いに行ったオレンジ色の表紙のオペラ脚本をカバンから取り出して、マグカップを片手に読み始めた。この面接的なものの後にテストの仕事を頼むと言われていたし、もちろん彼女を感心させたいという思いもあった。

アメリカ人の美大生なら「勉強してきました!」と露骨にアピールするところだろうが、相手は国際的なデザイナーとは言っても日本人だし、なんだか照れくさくもあり、約束の5分前になってから、本はテーブルに置いて表紙は伏せ、題名が書かれた背表紙は、石岡さんがもう少ししたら座るであろう席からは見えない方を向けた。

指定の時間から10分ほど過ぎた頃、カフェの入り口に、はじめてのときと同じ全身黒ずくめの小柄なおばさんの姿の見えた。キョロキョロとカフェを見回し探している。前回の登場とはうって変わり、サングラスもかけておらず、服装こそ黒ではあるもののカジュアルな出で立ちで、小脇にノートバッドを抱えている。自宅からひょっこり出てきたという雰囲気。

わたしは、あわてて立ち上がり、彼女の方に手を上げた。石岡さんは、ギャルソンに「連れと一緒」と英語で一言うと、満面の笑顔で私のテーブルに一直線にスタスタと向かってきた。この前の大迫力の登場とはえらい違いだ。

「すみませんね、ちょっと待たせちゃったわね。」

彼女は楽しそうな声でそう言うと、自分のイスに座り、たしか紅茶を頼んだように記憶している。注文を取りに来たギャルソン氏と冗談を言い合って、キャッキャ、キャッキャと笑っている。わたしは、ちょっと拍子抜けした。

とは言っても、今日は面接なのである。テスト仕事を出して、それから手伝ってもらうかどうかを決めると、この人は言っているわけだから、まだ油断ならない。

石岡さんは、まず、今の仕事のスタイルから話しはじめた。

彼女は、たくさんのスタッフを抱える東京の事務所を畳んでアメリカに渡り、NYを仕事の拠点にしてからは、世界各地のプロジェクトごとに現地で別々の精鋭チームを組んで仕事をしているという。従って、常に彼女に常時張り付いている助手は雇っていない。

大きなプロジェクトだと、それぞれプロデューサーが助手を雇ってくれるから、学生のインターンというのもいままで一度も使ったことがないという。そもそも学生という海のものとも山のものともつかぬ民族は信用していないのだと言う。つまり、もしも採用ということになれば、私は、少なくとも彼女のアメリカでの仕事人生において、はじめての学生助手ということになる。

そんな彼女が私に興味を示した理由は、デザインコンペ審査会での私の仕事ぶりが良かったこともあるだろうし、海老原嘉子さんという共通の知人がいることもあるのだが、決め手は別のところにあった。

このとき彼女は、ほぼフルタイムで「オペラ」のコスチューム・デザインに没頭していたのだ。

オペラやクラッシック音楽、バレエといった古典舞台美術は、行政からの助成金や、企業・個人からの寄付で成り立っていて、予算は極めて少ない。石岡さんが手掛けていたのは、アムステルダムを拠点にするオランダ国立歌劇団の公演で、数年にわたる長丁場の仕事の間、現地に滞在中はオペラハウス所属の職人達と一緒に仕事をしているものの、NYにいる間は手伝いがいなくて苦労していると言う。

そんなにお金にならないプロジェクトを数年にわたってやっている理由は、ワグナー作曲「ニーベルングの指輪」4部作、つまり4本の長編オペラから構成されるこの作品が、滅多に実現しない大事業であり、かつ、舞台監督からの熱いラブコールを受けたからだと言う。後に聞いた話では、この大作は、ヨーロッパ各地の一流のオペラハウスでは採算度外視の大赤字演目として目玉商品なのだそうだ。

その儲からない大作オペラのおかげで、偶然にもわたしの出番が回ってきた。

このとき、すでに4部作のうちの1作目の衣装をつくっているところで、私が手伝うことになれば2作目の「ワルキューレ」からだという。

たったの30分前のことだが、わたしは、かろうじてワルキューレの途中までは、脚本を飛ばし読みしていた。

「まず、そのための資料集めをお願いして、あなたのトライアルということにしてみたい」と、彼女は言い、ワルキューレがどんな話かを私に説明しはじめた。

私は、スペルが全くわからない登場人物の名前を日本語と英語混じりで猛スピードでメモしながら、ときおりアメリカ流に彼女の目をじっと見つめて相づちをうち、神々が結婚やら嫉妬やらに狂いまくるという第2幕のストーリーを続ける彼女の声に耳を傾けた。

そのうち、さっき読んだばかりの話なものだから、わたしは、無意識にストーリーを知っているようなそぶりで相づちを打ち始めていた。

石岡さんは異常に勘が鋭い人だ。工業デザインを勉強しているそのへんの若い学生が、ワグナーのオペラの筋書きを細かく知っているはずはない。

途中で、何かがおかしいと感づいたのか、彼女の表情が曇った。

彼女は突然無言になり、テーブルの隅に伏せて置かれた一冊の本を鋭い目でみつめたと思うと、漫画のような音を出して「はっっ!!」と息を飲んで眼を剥き、猛スピードで私の本に手を伸ばして手元に引き寄せ、表紙を一瞥。ゆっくり顔を上げると、私の方をジッと見た。

ニヤっと笑い、私の人生で彼女の口から2度だけ聞くことになるセリフ。

「・・・ヨシさん。やぁりますね。」

親方は本を両手で持ったまま、私と表紙を交互に眺め、なにかに納得したみたいに、何度も何度も、小さくうなずいていた。

採用。

 

{写真:この日に持って行った脚本の実物。先月引っ越しのときに出てきました。まさかまだ持っていたとは思わず。当時の書き込みや、貼ったままのポストイットが懐かしい。}

=== つづく ===

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『神からの電話。オペラの台本を探す夜のマンハッタン』 連載 石岡瑛子さんからの個人レッスン – 5

この美大生は、ひとつの大問題を抱えていた。

石岡瑛子という人の経歴をほとんど知らないにも関わらず、初対面の本人に向かって「尊敬しています」と言ってしまったという、あれだ。

わたしは大慌てで、最新鋭の「56Kbps」のネット回線を駆使して、彼女のことを調べ始めた。

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『NYの美大生、決死のアタック。意外な返事』 連載 石岡瑛子さんからの個人レッスン – 4

帰り支度を済ませた石岡さんは、ハンドバッグに手を伸ばし、イスから立ち上がった。

目の端でタイミングを見極めていた私は、素早く数歩近づく。緊張を隠すように、あくまでも自然に、そしてさりげなく・・・。

「石岡さん、今日は、お疲れさまでした。」

「ええ、作品の説明、ありがとう。」

「あの、申し遅れましたけれども、作品をいままで拝見して、とても尊敬してます。将来、なにかお手伝いする機会があればと思ってます。お金はいりませんので。」

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『「アカデミー賞」と檻の中。助手としての初仕事』 連載 石岡瑛子さんからの個人レッスン – 3

石岡瑛子という怖そうなおばさんと美大生の私は、二人きりで、ソーホーの広いギャラリーに取り残されていた。

デザインコンペのスポンサーである偉いおじさん達は、彼女の希望で別室に追いやられることになり、主催者の海老原嘉子さんは、

「こちら、工業デザインを勉強してる優秀な学生の阿部くん。彼が作品の説明するから」

と、ハードルを上げるセリフを言い残し、彼らの相手をするために一緒に出て行ってしまった。

「そう。よろしく」

黒いイッセイ・ミヤケを全身にまとった石岡さんは、端的な言葉でそう言うと、私の眼をじっと見つめて、古風な赤い口紅を塗った唇と少し濃いめの化粧で社交的な笑顔を見せ、片手を差し出した。

私が、あわててつかんだその手は、意外にも小さくて、繊細な女性のものだった。

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十五年以上も前の、あの日のこと。そこから書き始めようと思う。

当時、私は、ニューヨークの美大で勉強しながら、ソーホーの南端にあるデザインギャラリーのオーナー・海老原嘉子さんのところに頻繁に出入りしていた。NYに来た日本の著名デザイナーが必ず顔を出しに寄るという、デザイン界の生き字引のようなエネルギッシュな女性だ。

インターネットが流行しはじめたばかりの1996年頃、趣味で始めた美術館やデザイン系ショップを紹介するウェブサイトを見つけてくれて、「そのエネルギーをうちで使わない?」と声をかけられた。それ以来、彼女のデザイン財団を手伝って次から次へと有名な人に会ったり、日本のデザイン雑誌に書かせてもらったりと、大興奮の経験をさせてもらっていた。

石岡さんと初めて出会うことになるあの日は、刃物のデザインを競う、学生向け国際デザインコンペの審査会スタッフとして会場にいた。

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