石岡瑛子という怖そうなおばさんと美大生の私は、二人きりで、ソーホーの広いギャラリーに取り残されていた。
デザインコンペのスポンサーである偉いおじさん達は、彼女の希望で別室に追いやられることになり、主催者の海老原嘉子さんは、
「こちら、工業デザインを勉強してる優秀な学生の阿部くん。彼が作品の説明するから」
と、ハードルを上げるセリフを言い残し、彼らの相手をするために一緒に出て行ってしまった。
「そう。よろしく」
黒いイッセイ・ミヤケを全身にまとった石岡さんは、端的な言葉でそう言うと、私の眼をじっと見つめて、古風な赤い口紅を塗った唇と少し濃いめの化粧で社交的な笑顔を見せ、片手を差し出した。
私が、あわててつかんだその手は、意外にも小さくて、繊細な女性のものだった。
石岡さんの古い友達である海老原さんから、「瑛子はプロダクトデザインのことはよく分からないだろうから、阿部くん、説明してあげてよ」と事前に頼まれてはいた。
もちろん、「アカデミー賞」と二人きりで、檻に閉じ込められるとは聞いていない。
でも、私は認めなければならない。偉そうなおじさん達が、寂しげな顔で全員追い出されるのを眺めていたら、一番若い自分だけ残っても良いという展開に、ちょっと優越感も感じていたことを。
NYの美大生にとって、「この間、すごい有名人と会ってさ」という自慢話は、自分の格を上げる重要なネタなのだ。
アートギャラリーが建ち並ぶソーホー地区らしい、高い天井に白い壁の、大きなスペース。この日はギャラリーは休みで、かわりに各国の学生から届いたプレゼンボードが床置きで立てかけられている。そこに、たった二人だけだから、静かなものだ。ときおり、ギャラリーの前の道を車が通り、人が歩いて行くのが、ガラス越しに見える。
石岡さんはすでに、胸の前で腕を組んでウロウロしていた。ずらっと並ぶ100点ほどのデザインボードを前に、始める気まんまんのようだ。有名な人だから、きっと早く済ませて帰りたいのだろう。
私は、審査用紙が挟まったクリップボードを手に、審査番号「1番」のパネルへと、彼女を礼儀正しく、精一杯の機敏な動作でお連れした。
プロダクトデザイン界を代表して、石岡さんの説明係をおおせつかったから、一流の解説をしようと必死だったけれども、なにしろ、学生の作った下手くそなプレゼンばかりだし、ヨーロッパの美大からの出品も多くて英語が意味不明。ちょっと読んだぐらいでは何がデザインの売りなのか、さっぱり検討がつかない。
そんな焦りに気づいてない彼女は、「このデザインは何が特長なんですか?」とか「この部分はどんな機能なの?」と容赦無く聞いてくる。石岡さんは、私の薄い説明にも真剣に耳を傾けてくれている。すべての作品を丁寧に理解してから選ぼうとしている様子がうかがえたので、私も一緒にプレゼンの内容をできるだけ理解しようと努めた。
学生が授業の課題としてあわてて出品した低レベルなものも多かった。「ハサミなのに何も切れない」という、ジョークのようなデザインもあって、きっとこの偉い人は機嫌を悪くするに違いないとビクビクしていた。
ところが、である。
彼女は、そういうデザインに遭遇するたび、可愛らしく、クスクス笑っている。
私は、だんだん安心して、調子に乗りはじめた。
「いやー、これはひどいですね、石岡さん」
「救いようが無いわね、ふふふふふ」
こんな調子で、二人きりでたっぷり1時間をかけて、石岡審査員が選ぶ作品は決まった。
彼女が入選マークを貼った作品たちは、他の有名なプロダクトデザイナー達が選んだものとは、まったく違っていた。
まじめな私は「まずい、オレの解説が悪かったか?」と罪悪感を感じる一方で、「この人、ほんとにデザインのことわかってるのかなぁ」と疑問も感じていた。
何しろこの時点では、このちょっと変わった眼を持つ巨匠のことを、よく知らないのだから仕方あるまい。有名な人というのは、予備知識なしでいきなり会うと、私たちと大差の無い一人の人間にすぎない。
私は、審査が終わる頃には「意外に話のわかる面白いおばさんじゃないか」と思っていた。有名人だという話なのに、こんな地味な学生コンペを真剣に審査しているところは、ちょっと不器用でマジメな人のようだと、親しみを持った。
いま思うと、これが石岡さんの助手としての、最初の仕事だったのである。
登場したときとは打って変わり、スポンサーのおじさま達と礼儀正しく、楽しげに談笑した石岡さんは、帰り支度を始めていた。
その姿を、冷静を装った表情で見つめる、ひとりの若いデザイン学生。
彼は、最初のセリフを、頭の中で、繰り返し繰り返し、リハーサルしていた。
=== つづく ===