十五年以上も前の、あの日のこと。そこから書き始めようと思う。
当時、私は、ニューヨークの美大で勉強しながら、ソーホーの南端にあるデザインギャラリーのオーナー・海老原嘉子さんのところに頻繁に出入りしていた。NYに来た日本の著名デザイナーが必ず顔を出しに寄るという、デザイン界の生き字引のようなエネルギッシュな女性だ。
インターネットが流行しはじめたばかりの1996年頃、趣味で始めた美術館やデザイン系ショップを紹介するウェブサイトを見つけてくれて、「そのエネルギーをうちで使わない?」と声をかけられた。それ以来、彼女のデザイン財団を手伝って次から次へと有名な人に会ったり、日本のデザイン雑誌に書かせてもらったりと、大興奮の経験をさせてもらっていた。
石岡さんと初めて出会うことになるあの日は、刃物のデザインを競う、学生向け国際デザインコンペの審査会スタッフとして会場にいた。
自分もデザイン学生のくせに、出品する方には興味は無く、好きこのんで裏方として参加するところは、ませた美大生だったと言わざるをえない。
海老原さんの人脈で集まった審査員は、タッカー・ヴィーマイスター、カリム・ラシッド、エリック・チャンという、工業デザインを学ぶ学生には憧れの、超一流どころの勢揃いである。まさしく専攻がそれだった私は、神様達が作品を吟味する姿を、デザイン雑誌でも見ている気分で眺めていた。・・・いかにも日本人らしく、おびえながら端っこの方で、ですけれども。
さて、そのスターデザイナーの一団が去った後、1人だけ、まだ来ていない審査員がいた。
スケジュールが合わなかったのか、それとも、他の審査員達と顔を合わせたくなかったのか、審査員の中で唯一の日本人だった石岡という名の女性だけは、なぜか、独りで審査をすることになっていた。
その人のことは、ほとんど知らなかった。
高校生だった頃、父が買ってきた「AXIS」という日本のデザイン雑誌に、映画「ドラキュラ」の真っ赤なドレスの写真が載っていた。キレイだなぁと思ったことは記憶に残っていて、海外で活動するファッションデザイナーだろうというくらいの認識だった。
海老原さんにとっては気心知れた古い友達らしく、カジュアルに「えいこ、えいこ」と呼ぶ仲のようで、アカデミー賞を受賞していて、ちょっと気難しい人だと教わった。
そうこうしていると、会場だったギャラリーのガラスドアの向こうの道路に、まばゆい山吹色のタクシーが一台とまるのが見えた。
誰かが「あ、いらっしゃったようですよ」と声を出す。その有名人の姿を見ようと、落ち着かない様子で、今か今かと待っていたスポンサー企業のおじさま達一同は、一斉に入り口の方を向く。
タクシーの黄色いドアを押しあけ、機敏な動きで中から現れたのは、小柄な、全身真っ黒の「クマ」だった。
巨大なサングラスをかけ、肩に小さなツノがあるプリーツ・プリーズの上着をまとい、足元まであるロングスカートという出で立ち。パーマがかかったチリチリの髪型も大迫力で、何も知らない他人が見てもタダモノではないということくらいは察するであろうオーラを漂わせていた。
ガラス張りのドアを開けて、中に入ってきた彼女は、待ち受けるスポンサー企業のおじさん達の一団を見て笑顔でお辞儀をするや、スタスタと海老原さんの方に歩み寄り、サングラスをかけたまま小声で話し始めた。漏れてくる声は、あきらかにイライラしている。会場に冷たい空気が流れ、一同、呆然としてその様子を見守っている。
判決。審査に集中できないので、「全員締め出し」をご希望である。
見た目どおりの、おっそろしい、おばさんだ。
=== つづく ===