NHKのドキュメント番組『プロフェッショナル』に、アカデミー賞を受賞した石岡瑛子さんのマンハッタンの仕事場が映って、「あれっ?」と驚いた。
広大なセントラルパークを見下ろす、黒光りする尖った高層ビル。カーネギーホールの隣に立つ超高級マンションの70階という絶景。あの番組を観た人には、単に、見慣れたNYの光景だったでしょう。
なぜビックリしたか。
いまから15年ほど前のこと。あそこは、当時助手をしていた私が一度も入れてもらえなかった、謎の自宅兼仕事場だったからだ。そこに、テレビカメラが入っている・・・。それに、公の場に登場するときは、ふさふさした巨大な黒髪がトレードマークだった彼女は、なぜか、頭にスカーフをかぶっていた。
その番組を観た翌年。彼女の死を突然知ったのは、2012年1月27日の朝。
ソファで目が覚め、毛布を被ったまま朝日新聞のサイトを読んでいたら、見慣れた漢字4文字が眼に入って、背筋が凍った。
亡くなってから1週間近くが経っている。しばらくご無沙汰していたせいもあるが、癌で去年から日本に戻って来ていたということも初めて知ったし、葬儀も近親者だけで行ったと聞いた。
鋭く厳しい仕事人としての自分のイメージを維持することにこだわる人だった。プライベートな緩い部分は公の場では、ほとんど見せなかったから、石岡さんらしい去り方とも言えるかもしれない。
石岡さんと出会った当時の私は、ニューヨークのプラット・インスティテュートという美大で、工業デザインを勉強している学生。二十歳くらいだったろうか。
その若造が、ある日突然、アカデミー賞をとった彼女の助手をすることになった。
伝統的な日本の芸能・工芸の世界で働き始める若者は、最初は親方の身の回りの世話をさせられる。ヨーロッパで指揮者を目指す音楽家の卵も、巨匠の鞄持ちをする日々の中で、師匠がどのように人と接し、生活の中で大舞台へと準備を整えるのか眼にすることによって、仕事人としての生き様を学ぶという。
私が、石岡さんの手伝いをする中で頭に刷り込まれたことの多くは、作品の作り方ではなく、仕事人としての生き様だった。彼女に関する予備知識がほとんど無いというのに助手を始めたから、彼女のことを「すごい有名人」という色眼鏡で見ていなかったせいもある。
ほとんどの他人が目にすることができるのは、「作品」という結果だけだ。クリエーターというのは作品で評価される仕事だから、当然と言えば当然のことだけれども、作品の姿は、言うなれば、エベレストの頂上を撮った1枚の写真。
若きクリエーター達が学ぶべき作品づくりの本質は、派手でかっこいい頂上ではなく、そのはるか下にある「地味な毎日」の方にあると石岡さんは教えてくれた。
これから私が、10回ほどにわけて書いていくのは、マンハッタンで助手をした約2年の間に見たことや、石岡さんから聞いたこと。そして、私が帰国してからも突然かかってくるピンチヒッター要請の電話のこと。「大家さん」としての石岡さんのことも少々。
プライベートな側面は、親しい人以外には見せなかった彼女が、亡くなる前にテレビに出たところをみると、働く生の姿を若い人に見せておこうという心境になったのかと思う。そこで、彼女に怒られない程度に、私が個人的に経験した彼女の手伝いのことを、この機会に書くことにした。
デザイン業界では「鬼のように厳しい」仕事人として知られる石岡さん。
でも、私の知っている石岡さんは鬼じゃなかった。いつも優しくしてくれた、笑顔で乙女な「瑛子さん」の方を書きたいと思います。
=== つづく ===