いつも不思議に思うことがありまして、自分はなぜ、海外で生活するのがこんなに大好きなのかなと。
生活費が安く済むとか、天気が良いとか、誰が聞いてもわかりやすい理由はいろいろ考えつきますが、それだけで説明できないところがあるんですね。常夏で物価が安い町なら、日本国内にもありますし。海外生活は良い面ばかり取り上げられますが、実際にやってみますと苦労も多くて、慣れた日本で暮らす方が楽だと思うこともあります。
ここ数年モヤモヤと考えていたんですが、答えらしきものを見つけました。それは、日本の外に出たときにではなくて、逆に戻ったときのことです。
成田空港に降り立つと、祖国に戻ってきてホッとするのは当然なんですが、入国審査で大勢の日本人の列に並んだとたんに、ちょっとした不安を感じました。自分の存在感が薄くなったような気分でした。
海外では日本の人はよく見かけますが、行列全員が日本人ということはまずありません。自分が手に持っているのと同じ赤と紺のパスポートを持つ人たちの列に並んでいますと、ここでは、わたしも大勢の中のひとりにすぎないのだなぁと。帰国すると自分と同じ日本人はウジャウジャいますので、なんだか急に、ひとつ特徴を失ってしまったような錯覚ですね。
自分そのものは世界中どこに行っても特に変わりません。別の場所に行くだけで魔法のように変身したりはできませんから。ところが環境の方が変わりますとね、自分の存在がけっこう違うものになります。ここで書いている「環境」というのは、住む国や街のことですが、働く会社や仕事の業界にも同じことが言えます。
ひとつはシンプルに数の原理です。最近では海外に日本人はたくさん住んでいる・・・ように感じますが、中国やインドの方々に比べれば微々たる数で、一部の物好きが飛び出したに過ぎない程度ですから、珍しい存在です。数や量が少ないものは、自然と貴重な存在になる。金塊やダイヤモンドが高価なのと同じ理由ですね。
場合によっては、日本人というだけで、仕事という形でお金になることもあります。例えば、普通のアメリカ人が日本に来ると、少しだけトレーニングすれば英語の先生という職業につくことができますが、日本人の場合も日本語を話せるという、祖国では何の得にもならない能力を、仕事にすることも可能です。
自分がそれを経験したのは、NYの美大に通っていたときのこと。日本では神様のような存在だったデザイナーのアシスタントを、マンハッタンで数年したことがありました。日本だったら競争率が高すぎて近づくことすら難しい有名人ですが、そこはニューヨークでしたので、日本語を話せて気が利く美大生という組み合わせだけで、ものすごく重宝されました。日本だったらそこらじゅうにいるとまでは言いませんが、かなりの人数がいるレベルの若者です。
日本人デザイナーというのは、ある種のブランド化していて、世界中でとても人気があるんですね。真面目に働くし、文句は言わない。向上心も高く、裕福な国なので、良いものを使っているから、美的センスも磨かれている。すべての人が、そのブランドに一致するかというと、そうでもありませんが、先人の巨匠たちや企業の皆さんが築き上げた「日本のデザイン」という強力なブランドがありますし、デザイン業界でなくても、日本人はよく働くし礼儀正しいと一目おかれているところはある。日本じゃまじめに働くのは当然のことですが、外の世界では、それだけで超優秀な人扱いになります。
自分の希少価値に敏感なのは、自分がデザイン屋をやっているからではないかなと。他人と同じようなことをやっていると軽蔑される業界なので、人様と似たようなものを使っていたり、生活をしているとなんともいえない恐怖を感じます。自分の存在意義がなくなることは死活問題なんですね。
そんな自分ですから、海外で生活しているとなぜか気分が良い。違う世界で生活するのはデザインの発想の刺激になるのでメリットではあるのですが、なにより生きてて気持ちが良い。なんとなくですが。
こういうことは、同じ街や国にずっと住んでいると気付きません。世界中のあちこちに住んでみた今思うのは、場所を変えただけで、自分の価値が変わるということです。自分が特に変わった存在でなはいと思っていても、日本なり世界で住む場所を変えてみたり、働く会社を変えるだけで、急に重要な存在になることもあるということです。自分が気付いていないこともあるかもしれませんし、うまくいってないなら間違った場所にいる可能性もある。
自分を変えるのは年月のかかる一大プロジェクトですが、生きる環境の方を変えるのは、意外とかんたんなことです。